辞書で「判官贔屓」と検索すると判官贔屓とは
【不遇な人や弱い者に同情し、味方になることのたとえ。】
と出てきたが最近は判官贔屓の行き過ぎこそが自虐史観に陥る落とし穴なのではないのか?と思ったりする。
弱きを助け強きをくじくという考え方事態良い価値観であると思うが
度が過ぎると「弱い人間を倒した強き人物は悪」といった極端な認識に至ってしまう。
源義経に対して抱く、同情や哀惜の心情は理解できるが
それと対比して源頼朝を冷血な悪党とされてしまったら困る。
源義経が軍事的天才であったこと・平家を打倒した軍事的最高の功労者であったが
源義経には「政治的統治者能力」はない。
もし義経が征夷大将軍となってしまったり、後白河法皇の手中にはまってしまったら
鎌倉幕府は混沌とし、戦国時代のようになってしまい余計な血が流れていたに違いない。
大石内蔵助の忠臣蔵
自由民権運動に散った人物と当時の元勲
日本ではテロリストであるが伊藤博文を暗殺した安重根
意思に反してだが西郷隆盛を葬り去った大久保利通・木戸孝允・山県有朋
2・26事件を引き起こした青年将校
判官贔屓も結構だが、対比される強きものの「功労」「実績」にこそ第一にスポットをあて正当に評価されるべきであり、
打倒された弱き者の目線から立って歴史を見てしまうと正確な歴史とは全く違った錯誤に陥ると思う。